意味不明人間の朗らかな破壊

2013年末から書いてる、三流脚本家の与太話。完全不定期で更新。一方通行の近況報告。

3.30

新作同人誌『曇天を切り裂く花となれ』の頒布が開始されました。

アサルトリリィの二次創作です。個人的にはとても気に入っている作品なんですが、最近のメンタルも相まって「売れないかなあ」って思ってもいます。

 

わいがAPOLOGIESに入る少し前、秋田ひろむの『ゲーム、再考』っていうコラムの中の「可処分おこづかいの奪い合い」という記事の中で、こういう文を読んだ。

 “可処分時間の奪い合い”という言葉が以前からエンタメ世界でのキーワードになっていた。ゲームや音楽、ネットやテレビが、それぞれ個人の自由な時間を奪い合っているのだ。
 それは同時に“可処分おこずかいの奪い合い”でもある。元々“可処分所得”という言葉があるが、月々の携帯やネットの使用料金等、僕らの生活に必須になりつつある出費は昔より増えている。
 そして残ったおこずかいの中から僕らはお金を払って能動的に楽しむ事ができるわけだが、“可処分おこずかいの奪い合い”の紛争から身を守る事も必要なのではないか?面白そうなオンラインゲームを見るとほいほい課金してしまう僕は、自分を戒めなければいけない。

 そして僕はミュージシャンなので可処分時間、可処分おこずかいを奪う側でもある。実際スマートフォン向けamazarashi公式サイト「APOLOGIES」で月額会員を募っていたりする。僕やスタッフの日記、BBSや壁紙ダウンロード、ライブやリリース時には様々な企画も盛りだくさんである。これは宣伝でもあるが、皆さんが自分の身を守るチャンスでもある。今月解約しようと思っていても忘れてしまって「ああまた今月も無駄に払っちゃった」という経験はないだろうか?もしあなたがそうなら、今すぐスマホを手に取るのだ。

 (中略)

 ここまでファン目線で書いたが、さっきも書いたように僕は可処分おこずかいを奪う側でもある。その目線で考えると、自分のファン心理のシビアさに少しゾッとするのだ。
 僕らは果たしておこずかいを拝借するだけの価値がある存在になれているのだろうか?(後略)僕の中のファン心理が、僕というミュージシャンを常に見張っているのだ。

引用:http://katayaburiina.com/akita

当時、わいはまだそれでも瑞加賀作家をやってた時で、これを読んだ時に「確かになあ」と思ったりしたんですが、こうしてまた本を出した時に、これを思い出したんです。

わいは今でもamazarashiの大ファンだし、APOLOGIESも継続4年目、払う価値は大ありだと思って、今月も払っています。けど、さてじゃあこれが作家として、今回のように「お金を払ってもらう側」、この記事風に言うなら「可処分おこづかいを奪う側」になった今、果たしてわいの作品にお金を払おう、という人が果たしているんでしょうか?

ありがたいことに、既に友人らが購入してくれて、どれもわいの作品を読んでくれている方々なので、純粋にありがたい訳ですが、じゃあ他に払ってでも読みたい、という人がいるのかな、って言われたら未だに首を傾げてしまうんですよね。

わいはアサルトリリィ二次創作を書き始めてから、今日までずっと、少なくともわいが満足できる作品を上げ続けてきたつもりです。そしてそれは、前回も言いましたが、数字で表れています。

けど、じゃあ評価をしてくれた人が全員買うか、と言うとそう言う訳ではないわけです。『無料』が最強なコンテンツである昨今、それでも有料のものにお金を払う、というのはやはりそれだけ、そのコンテンツに熱意のある方がしてくれるんだと思ってます。わいのAPOLOGIESへの月額加入もそうです。

それなら、そう言うファンを作れるほどの作品を、わいは書けているんでしょうか。そして、お金を払って貰うに値するものを作れたのか。そこには、やはりどうしても「自己満足」で片せられない部分があって、こういうものを出す、という難しさを改めて感じた今日この頃です。

 

ともあれ、最近は凹みようがすごいので、しばらくは創作から離れて、しばらくゲーマーに戻ります。熱意は消えてはないんですけど、このままだとまた嫌いになる未来が見えるんで。好き勝手にやってるものは続けながら、創作と付き合うには丁度いい温度を探します。

 

また書きます。