意味不明人間の朗らかな破壊

2013年末から書いてる、三流脚本家の与太話。完全不定期で更新。一方通行の近況報告。

6.19

晴曇空です。

 

色々あって、また悶々としている日々を送っています。自分にとっての幸せと、他人にとっての幸せの縮尺って違くて、不幸もまたその然りで。

わいにとっての「これをされているあの人は不幸に違いない」という感情は、結局のところ、当事者にとってはさほど不幸だと思っていないかもしれない。そう思うこと自体がエゴなんじゃないか?って考えるような出来事がありました。

『人を救う』という行為は、本当に善なのかどうか。今日、歩道橋から飛び降りた彼を助けたけれど、本当は彼は日々の苦に耐えかねて、死にたかったんじゃないか?「死なないこと」が美学な今日、助けたものの、そのあとは放ったらかしで彼が苦しんでまた死のうとするのなら、その命に意味はあったのか?

これは全くの例え話ですけど、僕が抱える「善」は他人にとってはそうじゃないのかもしれない。僕がどうにかしたい、って思う感情の裏腹に、彼はそれを望んでないかもしれない。いつかの感情がフラッシュバックします。幼馴染の「親に縛られて騙されて洗脳されてた方が楽だったのかも」って言葉が脳裏に浮かびます。まあそう言った彼女は幸せそうなんで、そうしたことに意味があったんだと思います。

 

そげな訳で、まあ割と精神的なキャパはまたカツカツです。昔よりは遥かに環境は良いし、2年前の秋と比べたら、わいは幸せもんだと思います。

けど、周りにいる誰かが困ってるなら、わいはその人を助けたいって、どうしても思ってしまいます。それは普通の事なんだろうけど、今までを振り返ると、助けた後地獄を見てるので、やらない方が良いんじゃないか、って思います。

前の例に戻りますが、歩道橋から飛び降りた彼が、もう二度と飛び降りようと思わなくする為に出来る力は、わいにはない。心理学は学んだけれど、だからといって特に資格なんかない。

でも、彼がまた笑えるようになるなら。そう願ってやまないから、またわいは動こうとしてます。

肝心な時に他人は助けてくれない。わいがどんだけ傷ついたところで、その傷を手当してくれる人なんかない。わいが今までやってきた時は、孤独の戦いでした。裏切られもしました。そうして今日に至ります。

 

やるかやらないのか。そんな二択がこんなに難しいことは無いです。でも多分やるんだろうな、って思います。だから、今回はもう本当に死ぬ気でやります。ダメなら死にます。刺し殺される覚悟です。

そこまで思わないと、もうわいには人助けは無理です。助けた後に苦しみ過ぎたから。元相方に「昔の毒から逃げ出せないと人助けは無理だよ」って言われたけど、そうした原因の一つになった人が何を言うか、って感じですが。

 

ただ、まあ、どうせ死んでも悲しむ人はいないしな結局。景色は変わったけど、わいは相変わらず独りだし、その癖周りはどんどん幸せになっていくし。

死にたい理由はないけど、生きたい理由は未だに見つからないっす。だからそういう事を言うのかも知れません。わいらしく死ねるんなら、それでいっか、って思う今日この頃です。

 

寝ます。おやすみなさい。