webnokusoyaroの『2周目』を久しぶりに。
何度も聴いてきて、何度も奮い立たせてもらった曲に歌詞。でも今思えば、あの頃はちょっと歪んで捉えてたなあとか思ったりします。
そして『インサイド』の『outro』。これももう何回も聴いた。初めて聴いたときの衝撃はまだ忘れられない。『ラップなんて俺はしたくない/これが無いともはや喋れない/本音なんて誰にも言えない/本音なんてどこにも吐けない』っていう歌詞に、ウェブクソのシャウト。ガツンと頭を殴られたような、そんな感覚に似ていた。
ウェブクソの真面目な曲って、動画とかにはあまり上がってなくて、アルバムを買って初めて聴けるんですけど、この2曲は本当に聴いて欲しい。
この2曲を聴いてた頃は、創作っていうもんが嫌で仕方がなかった。書いたって誰も読まないし、今日の世紀の傑作は、明日の駄作だった時代だった。
それから数年、見てる景色は変わった。少なくとも読んでくれる人は増えた。それなのに、この2曲が嫌に胸が刺さるのは何故だろう。
創作が嫌なわけじゃない。なんなら、この数年の中で一番やってて楽しいと思える。それなのに、なんでこんなに心が揺さぶられるんだろう。
結局、わいという人間は変われなかったからだ。
創作でしか言いたいことを吐くことが出来ない。
ボロボロになってる事に気づいたら、今でも手が痒くなったり、胸が痛くなったりする。
「嫌われ者でいよう」って思ったはずだ。
もう誰も傍にいちゃくれない。それを分かってたはずだ。それなのに、どこかまだ「好かれたい」と思ってる自分がいる。「助けて欲しい」と願ってる自分がいる。
そんなこと、もう叶わないのに。
願ってはならないのに。
こういうことを書いたのは初めてかもしれない。
これを読んだ人にとって、ただの文だ。
だけど、僕にとってはどうしようも出来ない叫びなのだ。
「創作」なんて余計な物を拾わなければ良かった。
そんなものを拾ったから、僕は色んな人と出会い、失った。失いすぎた。
本当に余計なもんを拾ってしまった。
これからも僕は失い続けるんだろう。
どうせ誰の事もまともに向き合えないこんな奴が、誰のことも救えるはずがない。誰かの心を揺り動かせるような傑作を書ける訳が無い。
それなのに、そんな事実から目を背けて、今日も文を書いてる。誰かは言うだろう。「そういう事を気にしないで書けばいい」んだと。たしかにその通りだ。
誰かにとってたかが二次創作かもしれない。たかが創作かもしれない。それでも、今日この日まで生み出してきた作品は、どれもそういう僕の『後悔』の塊で、醜い『自己顕示欲』で、魂からの叫びなのだ。それを分かってくれる人間は、きっとこの世の中にはいない。
遠いところまで来た。だが、僕以外に結局のところ、理解者なんて居なかった。それがどうしようもなく苦しいのだ。
苦しみの中で産んだ作品が良い作品になるなんて、そんなこときっと僕が一番よく知っている。そうして生み出して、評価が高かった作品が現にある。それは喜ばしいことだ。
けど、だからこそ僕は空虚なのだ。それが得たものだとしても、失ったものって言うのをカバー出来るほどのものじゃない。大切な物を沢山失った。大好きだった人に、失望させる原因になった。その一番根幹の理由は、この創作だった。
僕は創作が好きだ。けど、それ以上に創作の事は大嫌いだ。相反する感情を創作に抱いてる。だから書ける作品、話がある。でも、それで過去が清算できるかどうかは別の話だ。結局僕は許されないのだ。
最早「評価されたい」が目標じゃなくなった。それなら今の僕の目標はなんだ。創作を続ける理由はあるのか?この先に何があるのか?何も分からない。
僕が僕である限り、きっと誰かに好かれる事は無い。そういう奴の作品を情けで読んでいても、読まなくなるのは時間の問題だ。それならこれからも続ける理由は何だ?
分からない。だからこそ刺さるのだろう。webnokusoyaroの、この2曲が。
創作なんて僕はもうしたくない
でもこれがないともはや喋れない
本音なんて誰にも言えない
本音なんてどこにも吐けない
もうここにしか僕はもういないんだ
今読んでるこの文だけが僕
スマホに打ち込んで
嫌われる言葉を叫んでいる
この瞬間だけが僕だ
何がインサイド
人のことなど知るか
僕は僕の為に動いてる
ここにしか僕はいないんだ
今もうここにしか僕はいないんだ