意味不明人間の朗らかな破壊

2013年末から書いてる、三流脚本家の与太話。完全不定期で更新。一方通行の近況報告。

5.6

久しぶりに数日くらい創作しないで遊んでました。晴曇空です。

 

そろそろ創作再開するかーって感じで、ちまちまやってたんですけど、何気なしにamazarashiの『千年幸福論』を聴いて、なんか変に真面目になっちゃったんで、もそもそ書いておこうかなと思います。

『千年幸福論』っていう曲に出会ったのは、これも『カルマ』と一緒で初めて触れたamazarashi作品の「0.7」なんですが、あのライブの「千年続く幸福を」のリフレインがすごく気に入ってて、『カルマ』程ではないんですが、わいの創作にそれなりに影響を与えている一作なんですよ。特に昔上げた瑞加賀シリアスの同名作もそうなんですけど。

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今でもこの曲を聴いて思うことが色々あって、今みたいに考えてしまうですけど。

歌詞を見てもらうと分かりやすいんですが、色々な現実に起こる出来事とかがあって、そういう中で「幸福」ってどういうものなのかを描いてる(と個人的に解釈している)曲なんですけど、わいの創作の大テーマも『幸福って何か』っていうのを取り上げているのもあって、余計になんですけど。

 

わいは特に身をもって体験してるんですけど、案外「幸せ」って長く続かないもんなんですよ。自分のせいでも、天災や事故とか、そういう他の要因でも簡単に散ってしまうようなもんで、だからこそ儚いもんだとわいは思ってるんですけど。

で、それを強く思うようになったのは昨秋の件なんですけど(というか、その頃からスター付けてくれてるnaruzawanさん本当にありがとうございます)、それをこう、上手く表現できないもんかなあ、と色々と模索してます。

それで今思うのは、やっぱり「死」っていうのは、「幸福」を描くには必要な要素なのかなあ、っていうことなんですよね。

っていう話を書くと、わいの二次創作を読んでる人なんかは、「えっ、空さんそういう話を書く気なの?」って言われるかもしれませんが、それに関しては結構前から書く気ではいたんですよね。別の時系列として。

 

例えば喧嘩別れだとか、生きて別れると、どこかの拍子でまた再会する、みたいなことが無い訳ではないと思ってるんですが、死別はそういう事は無くて、本当にもう二度と出会えないんですよね。もちろん記憶には残りますけど。

アサルトリリィのアニメなんかは、そういう側面をしっかり描いてて、まあ制作会社が制作会社だけに「あぁ……」ってなるんですけど、でもやっぱり「死」って言うものは避けて通れないよなあ、って思ったりします。

話は少し逸れましたけど、「死」って何もかもの終わりなんですよ。みんな分かってると思うけど。その人との時間だったり、その人との日々だったりが、その瞬間に終わるんです。それが嫌だから皆目を背けたがるんだと思うんです。

けど、いつかは誰しも死ぬんですよね。その時、誰かが傍にいるのなら、その人との時間が終わるわけです。終わらせる側になってしまうわけです。だからこそ、向き合わなきゃいけないよな、って思ったりして、だからそういう話を書こうとも思うんですよ。皆簡単に「鬱系」って片付けちゃいますけど、あれこそ色々な意味で「幸せ」っていうもんの本質を描いてるんじゃないかなあ、って、『千年幸福論』を聴いててそう考えてました。

 

まあすぐには死ネタは書かないですけど、3カ月間で50本ぐらいアサルトリリィ二次創作を書いてきましたし(頭がおかしい)、アサルトリリィはアサルトリリィでも、新しい題材で書きたいな、と思ったので、またそっちの準備もちょこちょこ進めてます。それに関しては7月頃にお知らせできれば良いかなとか思ってます。でもまずはその前に今書いてる同人誌を完成させなきゃなあ……。

とはいえ、題材を変えるってったって、百合という百合は書きますけどね。書きたいから。けど、そのうち「昔の方が良かった」って言われる側になるんだろうなあ、とか思うとそれはそれでまた考えちゃいますけど、そこらへんの話はまた今度。

 

アサルトリリィのBDの話とかもしたかったんですけど、文字数が文字数なのでそれもまた今度。とりあえず寝ます。おやすみなさい。