意味不明青年の朗らかな破壊

完全不定期に、小説書くのに行き詰った時や、なんか書きたくなった時に書くブログです。

6.19

晴曇空です。関西の方々大丈夫でしょうか。あまりとやかく言いませんが、家財や家族も大切ですが、何よりもご自分を大切にしてください。あなたが壊れてしまっては元も子もないです。泣きたいときは泣いていいです。それが逃避になるなら。不安な日々は続きます。どうか。

 

最近、相方や友人から優しいと言われます。ただ、そう言われても、中学校時代の記憶でずっと引きずり続けている『お節介焼き』と言われてるようにしか聞こえないのです。

『お節介』と『優しい』って同じような意味で実は割と違うんです。

『優しい』は、

おとなしく、すなおだ。「気立ての―娘」。思いやりがあって親切だ。

一方の『お節介』は、

出しゃばって世話を焼くこと。不必要に人の事にたちいること。

幼い中学生のころの僕はこの意味を 知ってしまって、愕然としてしまったんですね。良かれと思ったことが裏目に出る。それは今でもやってしまうことで、悪い癖だなぁと思うんですが、いまさらやめれるわけでもないですし。

とはいえど、どっからが『優し』くて、どっからが『お節介』なのかは紙一重だと思うんですけどね。人によって尺度も違うでしょうし、そんなの知らねえって話なんですけど。

ただ、過去の私がブログで吐いてた気がするんですが、僕は昔から自分を「偽善者」と嗤ってきました。昔ほどないにせよ、今も私は自分を「偽善者」だと思ってます。それは卑下なのかもしれません。ただ、そうして卑下するのも、結局は中学生のころに「お節介焼きだ」と言われたからなんだと思うんですけど。

今日のブログのこの出だしだって、今の関西の方々からすれば「何も知らない他地域者が、何を言うか」って思われる方がいるかもしれません。そうなれば、あの冒頭は『お節介』になるわけです。一方で、いないとは思いますが「あぁ、この人は優しいんだな」って思われる方がいるかもしれません。そうすると私は「優しい人」になるわけです。ほら、結局他人の尺度で変わるんです。だから気にするだけ無駄だと思うんですけどね。それでもこの意識は拭えないんです。その要らねえ「お節介」で幾度も身を滅ぼすような経験をしたのにも関わらず、今でもその考えは捨てきれないんです。なんなんでしょうね、ほんとね。

 

相方に言わせれば私の「優しい所」は「他人を否定しないところ」だそうです。そりゃあ本当に悪人には腹も立ちますし、何でそんなことすんのかな、と思うことは多々あるんですが、でも確かに非難するのは好きくないです。最近の様々において、思えばそんなに非難したことはないです。特に創作関連については、特に。まあ過去に私がつらい思いしたからっていうのもあるんですが。でもそれが果たして「「優しい」といえる行為なのか?」と考え始めてしまうあたり、このめんどくさい思考は根が深いです。

 

まぁ、今日のブログはそういう話をブツブツ心の中で生まれることが最近多かったので、それを吐くために書きました。なので、明日以降、こういう思考が収まってくれればいいんですけど、多分「優しい」って言われるたびにこうなります。ああめんどくせ。

 

そういえば、このブログを書き始めて5年になるんですが、今年はすでに5年間の中ですでに一番多く記事を書いてるそうです。まあそれだけ私も純粋な人間じゃなくなったってことでしょう。ただ、こうして色々考えることが悪いとは、実は思ってないです。確かに、それが鬱のトリガーになることも多々ありますが、それによって他人よりいろんなことを考える、っていうのは、それだけ色々な観点から意見が言えるようになるので。ただ、あまりに最近こういう思考で頭が埋まってしまって、まったく小説が書けないので、そろそろ想像力の方にスイッチしてくれないと困るんですけどね。まあ、でも、これからもこのブログで、腰を据えて色々書き殴るつもりです。読者の皆様には、今後ともお付き合い頂ければと思います。

それでは、また。